1 はじめに
「黙秘(権)」という言葉は、今では広く知られている言葉と言ってよいでしょう。しかし、そのイメージとなるとどうでしょうか。
「容疑者は依然として取調べに黙秘を続けています。」
「被告は法廷で黙秘し、事件について語ることはなかった。」
このような報道に触れた人の多くは、黙秘をしている被疑者や被告人に対して、ある種の否定的な感情を抱くのではないでしょうか。
「悪いことをしたのに正直に話をしないとは何事か」
「何も話さないのは何かを隠しているからに違いない」
黙秘に対して人々が抱く感情・感覚とは、このようなものではないでしょうか。このような感情・感覚は、決して不自然・不合理なものではありません。なぜなら、それは、人の倫理観・道徳観、あるいは経験に基づいた感情・感覚だからです。
ところが、刑事手続の分野では、このような人の自然な感覚、あるいは素朴な感情とは必ずしもそぐわないようにも見えるルールが定められています。つまり、憲法は、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(憲法38条1項)と規定し、「黙秘権」(「自己負罪拒否特権」)を憲法上の権利として保障しているのです。
「黙秘権」が憲法上の権利として保障されることになった沿革をここで詳しく記述することはしませんが、自白を得るための拷問、自白を過信したことによって生まれた冤罪など、人類はこれまでに幾多の苦い経験を繰り返してきました。このような歴史に対する反省から、様々な刑事手続のルールや被疑者・被告人の権利が生まれました。「黙秘権」もその1つと言えます。
ですから、非常に大雑把に言うなら、「黙秘権」は、歴史上の反省から生み出された人間の尊厳を守るための権利であって、いわば人類の理性と叡智の結晶とも言うべきものです。
とはいえ、「冤罪はともかく拷問なんて昔の話じゃないか」と思う方もいるかも知れません。
確かに、今では、殴る蹴るなどの露骨な拷問は影を潜めたのかも知れません。
しかし、今でも、長時間の取調べが連日のように続けられるなど、肉体的・精神的苦痛を伴う取調べは日常的に行われています。
ですから、「黙秘権」の価値・重要性は今も変わりません。
そして、この「黙秘権」を実質化するために、法は、様々な権利やルールを定めています。例えば、憲法・刑事訴訟法は、弁護人依頼権(憲法34条・37条3項、刑訴法30条1項)、自白法則(憲法38条2項・3項、刑訴法319条)、逮捕時の弁護人選任権の告知義務(刑訴法203条1項、204条1項)、取調べ時の黙秘権の告知義務(刑訴法198条2項)などを定めています。
このようなことからも法が「黙秘権」をいかに手厚く保護しようとしているかが分かります。
問題は、そのような「黙秘権」が現実においても手厚く保護されているのかということです。
残念ながら、その答えは「No」と言わざるを得ません。
端的に言えば、「黙秘」は権利と言われているものの、現実にはその権利としての性格が非常に薄くなってしまっています。その要因はいくつか考えられますが、最大の要因は「取調べ受忍義務を前提とする捜査実務」の存在です。
2 黙秘権の実情①~黙秘をしても、取調べは続く…
アメリカのドラマや映画などを観ていると、刑事が容疑者を逮捕する際、容疑者に向かって、次のようなことを伝えている場面を目にすることがあります。
「あなたには黙秘権がある。」
「あなたが話したことは、法廷であなたに不利な証拠として用いられることがある。」
「あなたには弁護士と相談し、取調べの間弁護士を立ち会わせる権利がある。」
「もし経済的余裕がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。」
これらは、ミランダ警告(Miranda Warning)と呼ばれ、アメリカでは、法執行官が身体拘束中の被疑者に対して質問をする前に上記のような形で黙秘権その他の権利を告知し、かつ被疑者がそれらの権利を「任意に、十分理解しかつ理性的に(voluntarily, knowingly and intelligently)放棄した」と言えなければ、身体拘束中の取調べによって得られた供述は、公判で証拠として使用できないとされています。
このようなルールを確立したのが1966年のアメリカ連邦最高裁の判決(Miranda v.Arizona,384 U.S.436)で、日本の法律の教科書でも、「ミランダルール」、「ミランダ準則」などの名で紹介されています。
ミランダ判決は、身体拘束中の取調べに内在する強制ないし脅迫的要素に着目し(例えば、身体拘束下の取調べの本質について、同判決は、「the very fact of custodial interrogation exacts a heavy toll on individual liberty, and trades on the weakness of individuals.」、「The atmosphere and environment of incommunicado interrogation as it exists today is inherently intimidating, and works to undermine the privilege against self-incrimination.」などと表現しています。)、憲法上の権利である黙秘権(Amendment V「…nor shall be compelled in any criminal case to be a witness against himself…」)を実効的に保障するためには、少なくともミランダ警告にある諸権利の告知が不可欠であるとしています。
もっとも、これだけを聞くと、日本とアメリカの間で、黙秘権の保障にそれ程大きな違いはないようにも見えます。なぜなら、日本の刑事訴訟法にも、逮捕時の弁護人選任権の告知義務(刑訴法203条1項、204条1項)、取調べ時の黙秘権の告知義務(刑訴法198条2項)が規定されているからです。
しかし、日本とアメリカの間には、非常に大きな違いがあります。
というのも、アメリカでは、権利の告知を受けた被疑者が取調官に対し、「黙秘したい」、「弁護士と相談したい(弁護士に立ち会ってもらいたい)」などの意思を示した場合は勿論、たとえそのような意思を明示していなかったとしても、告知された黙秘権等の権利を有効に放棄した事実がなければ、その後に質問することさえできず、また、一度は権利を有効に放棄し、取調べに応じていたとしても、被疑者が「やっぱり黙秘する」、「弁護士と相談したい(弁護士に立ち会ってもらいたい)」と言えば、取調べを中止しなければなりません。つまり、被疑者にはいつでも取調べを中止させる権利があるのです。
ところが、日本では、アメリカと同じように「黙秘権」が憲法上の権利として保障されていながら、その捉え方はアメリカと全く異なっています。
つまり、日本では、弁護人を取調べに立ち会わせる権利が保障されていませんし、「黙秘します」、「弁護士と相談したい」と言っても、そのことで取調べが中止されることはありません。むしろ、被疑者がそのような態度を示そうものなら、取調官による硬軟織り交ぜた説得が始まってしまい、その結果、取調べが、時間の面でも内容の面でも厳しいものとなりかねません。
これを聞くと多くの人は、「それでは本末転倒ではないか」と感じるのではないでしょうか。
黙秘できると言っても、罪を犯したと疑われている立場にある人が、取調室という外界と遮断された密室の中で、取調官から何時間も質問を浴びせ続けられるのであれば、黙秘が権利と言っても、それはせいぜい「黙秘しても処罰されない」という程度の意味しかないように感ぜられるのです。
実際、日本国憲法が施行されて間もないころから、ある刑事法学者は、黙秘権があると言っても、取調べを拒否できないのであれば、「供述を強いるのと異ならない」と指摘していました〔平野龍一「刑事訴訟法」(有斐閣・1958年)〕。
ところが、日本の捜査実務は、身体拘束を受けている被疑者には取調べを拒否する権利はない、つまり「取調べ受忍義務」があるとしています。これは日本国憲法が施行されて70年以上、アメリカでミランダ判決が出されて50年以上が経った今でも変わりません。
そして、日本の最高裁判所も、次のように黙秘権を保障した憲法の規定を非常に限定的に解釈しています。
「身体の拘束を受けている被疑者に取調べのために出頭し、滞留する義務があると解することが、直ちに被疑者からその意思に反して供述することを拒否する自由を奪うことを意味するものでないことは明らかである…。(中略)憲法三八条一項の不利益供述の強要の禁止を実効的に保障するためどのような措置が採られるべきかは、基本的には捜査の実状等を踏まえた上での立法政策の問題に帰するものというべきであり、憲法三八条一項の不利益供述の強要の禁止の定めから身体の拘束を受けている被疑者と弁護人等との接見交通権の保障が当然に導き出されるとはいえない。」(最高裁判所大法廷平成11年3月24日判決)。
「取調べ受忍義務」を肯定する考えの主な根拠としては、①刑事訴訟法198条1項の規定(「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」)の文言、②日本の文化・国民感情などが挙げられます。
しかし、前者の根拠は、あまりに形式的に過ぎ、解釈論としての合理性が乏しいと言わざるを得ません(前出の平野龍一「刑事訴訟法」は、但書について、「この規定は、出頭拒否・退去を認めることが、逮捕または勾留自体の否定するものではない趣旨を、注意的に明らかにしたにとどまる」と解釈しています。そして、このような解釈は、但書の立法過程にも沿うものでした。)。
一方、後者の根拠で挙げられている「日本の文化・国民感情」については、それが具体的に何を指すのかは、必ずしも明らかではありませんが、恐らくは、「『取調べ受忍義務』を否定すると、犯人を処罰することができなくなってしまい、治安が悪化するのではないか」、「悪い事をしたら自らそれを洗いざらい話して罰を受けるのが正義ではないか」といった類のものと思われます。しかし、それらが果たして憲法の保障している権利と対峙し得るものなのか、仮に対峙し得るものだとして、それらに憲法の保障している権利の価値を上回るような価値があるのかについては、非常に疑問が残ると言わざるを得ません。というのも、そのような理由で自白が重視されたが故に人類は大きな失敗を繰り返し、それを克服するべく「黙秘権」を生み出したのですから、「日本の文化・国民感情」を根拠に「取調べ受忍義務」を認め、「黙秘権」を制約することは、時代に逆行している観を否めません。